七里頼周(しちり・らいしゅう) ?〜?

本願寺の坊官。名の読みは、あるいは「よりちか」。加賀国における本願寺11世法主・顕如の代官。三河守。
当初は加賀国にあったようで、天正2年(1574)1月に越前国の一向一揆と織田信長の配下であった富田長繁との対立が露わになると、一揆軍を指揮するために加賀国から越前国に赴き、翌2月に長繁を討った。
これと前後して前波吉継(桂田長俊)朝倉景鏡(土橋信鏡)・魚住景固といった朝倉氏滅亡後に所領を安堵されていた朝倉旧臣らも討たれたこともあり、越前国は頼周ら本願寺坊官が統轄することになり、加賀国と同様に「一揆持ちの国」となった。頼周は上郡と府中周辺を統轄したようである。
しかし天正3年(1575)8月、織田信長の率いる軍勢が越前国に侵攻すると支えきれずに敗れ、加賀国へと逃れた(越前一向一揆)。
天正3年11月頃に上杉謙信と織田信長の同盟関係が消滅し、翌天正4年(1576)5月に上杉氏と本願寺および一向一揆との和睦が成立すると、とくに北陸地方の情勢をめぐって織田氏を共通の敵とし、天正5年(1577)8月に織田勢が能登国の七尾城を救援するために越前国から加賀国へ侵入すると、頼周は上杉謙信に来援を求め、上杉勢は9月に織田勢を能登国から撃退している(七尾城の戦い〜手取川の合戦)。
同年末、上杉謙信は『上杉家家中名字尽手本』と称される書の手本または名簿を作成している。これには上杉氏の重臣・城代・国衆ら81名の氏名が記されているが、この中に頼周の名も見える。