七尾(ななお)城の戦い〜手取川(てどりがわ)の合戦

武田信玄が石山本願寺、すなわち一向一揆と結んでいたので、上杉謙信はその対抗上の措置として一向一揆と敵対していた。が、元亀4年(=天正元年:1573)に信玄が没するとその必要性はなくなり、むしろ、織田信長に徹底抗戦する石山本願寺=一向一揆に親近感を覚えるようになったのである。そして天正4年(1576)5月18日、信長包囲網の形成を目論む足利義昭の仲介によって謙信は石山本願寺と和睦した。
その後、武田勢力を牽制する必要のなくなった謙信は越中国から能登へと勢力を拡張していったが、信長も越前国の一向一揆を平らげて加賀国から能登へと手を伸ばし始めていたときであり、ついに能登国の七尾城をめぐっての対決となった。七尾城の城主は畠山氏であったが、現実的には家臣の長続連・綱連父子、遊佐続光・温井景隆らが実権を握っていたのである。
謙信は天正4年(1576)9月に越中から能登へと兵を進めたが、そのとき七尾城に対し、自分に味方するようにとの勧降工作を行っている。ところがそのときは長続連・綱連ら親信長派の意見が多勢を占め、七尾城は謙信と敵対する姿勢を明らかにしたのである。
謙信はその年の10月、津幡・高松・一ノ宮を経て天神河原に着陣し、まわりの支城を陥落させて七尾城を孤立させると、12月中旬頃より大軍をもって取り囲んだ。
七尾城では籠城のまま年を越したが、翌天正5年(1577)3月、謙信は関東出兵のためにひとまず囲みを解いて越後国へと帰っていった。相模国の北条氏が謙信方の関東諸城を攻めはじめたためである。七尾城の長父子はその後、奪い取られた熊木城・富木城などの奪還に成功したが閏7月、再び謙信の大軍が能登に押し寄せ、七尾城は再度の包囲を受けることになった。

そんな情勢の中、七尾城内では伝染病が流行したために多数の将兵が病死してしまい、士気阻喪の状態となっていた。そのとき、長綱連は弟の連龍を変装させて密かに信長のもとに送り、援軍の要請をさせている。しかし信長のほうでもすぐに援軍を送れるような状態ではなく、援軍がないままに戦いは8月、9月と続けられた。
謙信の方でも、難攻不落と呼ばれる七尾城を力攻めにするのは時間がかかるし犠牲も大きいと考え、城中の遊佐続光・温井景隆に「内応すれば畠山の旧領と七尾城を与える」との約束を伝えた。遊佐・温井からの承諾の密書が届けられたのが9月13日という。内応派は早速に長一族百余人を殺害し、15日に七尾城は開城となった。
七尾城を接収した謙信は加賀国から織田勢力を駆逐するため、さらに西進を続ける。七尾城の南西に位置する能登国末森城をも落とし、織田勢との決戦に向かったのである。

一方、長連龍から援軍の要請を受けた信長は、総勢3万とも4万ともいわれる大援軍を派遣した。この柴田勝家を大将とした援軍は8月8日に越前国北ノ庄城を発って能登国へと向かうが、謙信と結んでいる加賀一向一揆の抵抗を受けたり羽柴秀吉隊の脱退などといったこともあって、行軍は遅々として進まなかった。そして9月23日、この両軍が接触する。
織田勢は七尾城の開城を知り、撤兵の最中であった。そこを士気の高揚している上杉・一揆勢が激しい追撃を加えたのである。この戦いで織田勢は散々に打ち破られ、1千余人が討ち取られたという。更には大雨が続いていたために手取川は増水しており、敗走の混乱の中で逃げ場を失って川に流されて溺死する者が多数あったという。
これを手取川の合戦と呼んでいる。
この一連の合戦の勝利によって、加賀国の北半分・能登国・越中国は上杉氏の勢力圏となったのである。