織田家臣。通称は九郎左衛門。備中守。はじめ塙姓を名乗り、のちに原田姓を称す。尾張国春日井郡の出身で、織田信長の伸長時より馬廻として仕え、一時は赤母衣衆のひとりに選抜されている。
永禄12年(1569)の伊勢国大河内城攻めや元亀年間の朝倉・浅井氏との戦いなどに従軍しているが、信長が京都を統治するようになってよりは行政官として重用され、元亀4年(=天正元年:1573)に信長に敵対した足利義昭が和議を結んだ際(足利義昭の乱)、義昭方から信長方へ出された起請文の宛名として、佐久間信盛・滝川一益とともに直政の名も記されている。
天正2年(1574)3月28日、信長が東大寺正倉院で蘭奢待を賜るに際し、これを監督した。同年5月には南山城の守護に任じられ、翌天正3年(1575)3月には大和国の守護をも兼ねているが、これは元亀元年(1570)より始まっていた摂津国石山本願寺との全面抗争(石山合戦)への対処として、山城・大和国の軍勢を束ねる司令官として抜擢されたものであろう。
また天正3年7月には信長の朝廷への奏請によって、明智光秀や丹羽長秀らと同時に九州の名族である原田の姓を許されて「原田備中守直政」と名乗っていることからも、馬廻から織田氏重臣へと立身していることが窺える。
この天正3年の8月には、越前国の一向一揆鎮圧にも出陣している(越前一向一揆)。
しかし天正4年(1576)5月3日、西国から瀬戸内海を経て石山本願寺へ至る糧道を断つために摂津国三津寺砦を攻撃したが、敗れて戦死した。