本願寺の坊官。別称を頼昭。筑後守。
天正2年(1574)2月頃に石山本願寺の法主・顕如の命を受け、杉浦玄任とともに越前国に赴いて諸事を差配した。これは桂田長俊(前波吉継)や富田長繁ら織田氏の属将が討たれて越前国が一揆の支配する国となったため、その統制のために派遣されたものである。その地位は、武家に準えれば守護か国主といったところであろうか。
越前国への下向後間もなくより本願寺系の寺院はもとより、他宗派の寺院へも寺領を安堵しているほか、織田勢に対する防衛の強化なども図っている。しかし寺院側と一揆の不和に苦慮している様子もうかがわれる。
そのような状況下で天正3年(1575)8月の織田信長による越前国出兵では迎撃に臨んだが、兵力差に加えて寝返りや出陣忌避などもあって、越前国は織田勢に制圧された(越前一向一揆)。頼照は逃走するために変装して港を目指したが、途中で捕えられて誅殺された。