簗田広正(やなだ・ひろまさ) ?〜1579?

織田家臣。通称は弥次右衛門・左衛門太郎。別喜(または戸次「べっき」)右近大夫とも称す。
簗田氏は尾張国春日井郡九坪の出身で、広正は織田信長に馬廻として仕えた。
元亀元年(1570)の朝倉征伐(金ヶ崎の退き口)の際、佐々成政・中条家忠とともに殿軍を務めて織田軍の退路を切り開いた。
天正元年(1573)頃より信長の嫡男・織田信忠が尾張・美濃国の家臣を継承すると、広正も尾張衆として信忠の配下に属すこととなり、天正2年(1574)7月の3度目の伊勢長島一向一揆の鎮圧の際には、信忠の率いる軍勢として出陣している。
天正3年(1575)7月の除目で別喜の姓を与えられ、別喜右近大夫と称す。このとき同時に賜姓や任官を受けた織田家臣は武井夕庵・松井友閑・村井貞勝・明智光秀羽柴秀吉塙直政丹羽長秀という錚々たる顔ぶれであり、広正も彼らと同様に今後の更なる活躍を期待されていたことが窺われる。
これと前後して信忠配下から信長直属となったようで、同年8月の越前一向一揆の鎮定に出陣。その鎮定直後には羽柴秀吉・明智光秀・稲葉一鉄細川藤孝とともに加賀国に侵攻して一向一揆と戦い、南半国(能美・江沼郡)を平定した。
その後は加賀国に在留し、檜屋城・大聖寺城を拠点として加賀国の平定を任されたが、一揆の攻勢に抗しきれず、翌天正4年(1576)秋に尾張国に召還された。
その後は再び織田信忠の軍団に配されたようで、天正6年5月に信忠が播磨に出陣した際に従軍している。
天正7年(1579)6月6日、九坪で没したという。