別所長治(べっしょ・ながはる) 1556?〜1580

播磨国美嚢(みなき)郡三木城主。別所長勝の子。通称は小三郎。東播磨8郡(美嚢・明石・印南・加古・多可・神東・加西・加東)を領した。
別所氏は赤松氏の一族で、播磨国東部の守護職の家柄で、もとは三木氏。
長治の三木城は山陽道の入り口を扼する要衝にあることから、毛利氏征伐を目論む織田氏の羽柴秀吉軍団の標的となった。
当時の三木城を実質的に動かしていたのは長治の叔父にあたる別所賀相であったが、天正3年(1575)には黒田孝高の説得により織田信長に臣従。しかし天正6年(1578)に突如として三木城に立て籠もって叛旗を翻した。その理由は、織田家の中国侵攻に際して別所氏が先鋒を命じられたが、「別所一族を最前線に立てて、勢力の消耗を謀っているのではないか」という賀相の疑念によるものといわれている。
長治は本城と30余りの支城に7千の兵を配し、信長に叛いた荒木村重や石山本願寺と連携し、また毛利勢の支援を受けつつ抵抗した。これには秀吉も攻めあぐねて物量に頼る作戦を取らざるを得ず、合計2万8千人もの包囲軍を形成。三木城と明石の魚住を結ぶ線上に数十もの砦を築き、糧道を断った。この兵糧攻めで1年5ヶ月をかけて、ようやく落城させたのである(三木城の戦い)。
25(23とも)歳だった長治は、「今はただ恨みもあらじ諸人の命に代わるわが身と思えば」と辞世を残し、城兵の命を助けることを条件に天正8年(1580)1月17日、妻子と共に自刃した。