姓を「石成」とも書く。三好家臣。その強力にちなんで「主税介(ちからのすけ)」と称したという。
出自は不詳であるが、遅くとも天文20年(1551)11月までには三好長慶に仕えていたことが明らかであり、永禄7年(1564)の長慶没後には三好三人衆のひとりとして長慶の後継・三好義継を後見して家中の実権を掌握した。
永禄8年(1565)5月、求心力の低下した三好氏の権勢を安定化させるために将軍を足利義栄に挿げ替えることを画策し、松永久秀と共謀して将軍・足利義輝を室町(二条)御所に暗殺した(室町御所の戦い)。しかし、久秀とはほどなく袂を分かった。
永禄9年(1566)5月には三好義継に従って和泉国堺で畠山高政・松永久秀と戦うも永禄10年(1567)2月には義継とも決裂するに至り、久秀と結んだ義継と畿内を舞台にして抗争を繰り広げたため、畿内の情勢は混迷の度合いを増した。
永禄11年(1568)、織田信長が前将軍・義輝の弟である覚慶(のちの足利義昭)を擁して上洛するとの報を得ると六角義賢と結んで阻止を企てたが、9月29日に居城の山城国勝龍寺城を攻め落とされて阿波国に逃亡し、信長が帰国したのちの永禄12年(1569)1月、三好康長と共に京都六条に将軍・足利義昭を襲撃したが、撃退されている(本圀寺の戦い)。
元亀元年(1570)に義昭が信長と不和となって軍事支援を得られなくなると、石山本願寺と結んで畿内への侵攻を企てた(野田・福島の合戦)。
元亀3年(1572)3月に信長に帰順したともいうが天正元年(1573)に義昭が信長と決裂したとき義昭に応じて信長と敵対し、山城国淀城に拠って細川藤孝らと戦ったが8月2日に討死した。享年43歳と伝わる。