志賀(しが)の陣(堅田(かただ)の合戦)

阿波国より摂津国に進出してきた三好勢と織田信長の対陣(野田・福島の合戦)中の元亀元年(1570)9月12日夜半、かねてより信長と不和であった石山本願寺が挙兵に及んだことで、石山合戦と呼ばれる抗争が勃発した。
本願寺の決起を受けて戦況不利となった信長に、さらに追い打ちをかけるような出来事が起こった。越前国の朝倉義景と北近江の浅井長政が、本願寺に呼応して軍を興したのである。この朝倉・浅井連合軍に加えて、近江国の一向宗門徒らも本願寺からの檄に応えて蜂起し、その勢力は3万といわれるほどの規模となった。
勢いを得た連合軍は16日に琵琶湖西岸から近江国坂本に進出する。これに対して織田勢は南近江の要衝・宇佐山城をして迎撃にあたらせたが、落城こそ免れたものの織田信治(信長の弟)・森可成らが戦死した(宇佐山城の戦い)。
複数の勢力に包囲されることを危惧した信長は本願寺との和睦を試みたが決裂したため、23日に摂津国から京都へと撤退、即座に兵を返して翌24日には逢坂を越して近江国へと出陣した。
一方の朝倉・浅井連合軍は坂本に滞陣し、21日には醍醐・山科に放火などしていたが、信長が動いたことを知ると決戦を避けて比叡山に上り、蜂峰・青山・壷笠山など方々の峰に陣を張った。この頃、朝倉・浅井連合軍に山門宗徒も加わって4万という規模にまで膨張している。
山上の敵を攻めるのは得策ではないと見た信長は、比叡山延暦寺に対して稲葉一鉄佐久間信盛を遣わして朝倉・浅井に味方することをやめるよう勧告し、やめないのであれば延暦寺を悉く焼き払う、と恫喝した。しかし延暦寺側はこれに同意しなかったため、信長は9月25日より比叡山の麓を取り囲み、包囲態勢を作ったのである。
信長はその性格からか持久戦を好まず、しびれを切らして連合軍陣営に使者を送って決戦を促したりもしたが、連合軍は挑発に乗らずに山上に籠もり続けた。
結局この両勢力は山の上と下で対陣を続け、12月10日に至って正親町天皇の綸旨と室町幕府将軍・足利義昭の調停というかたちで和議が結ばれ、15日までには両軍共に撤兵することになるのだが、その最中に一度だけ両軍の激しい戦闘があった。堅田の合戦と呼ばれるものである。

11月25日、近江国志賀郡堅田の地侍である猪飼野昇貞(いかいの・のぶさだ)・居初(いそめ)又次郎・馬場孫次郎が信長に内応を申し入れてきた。この頃の近江国南域は織田氏の勢力下にあったが、この堅田は本願寺の勢力が浸透しつつあり、まだ掌握するには至っていなかった地である。信長は早速に重臣・坂井政尚に1千の兵をつけて堅田に派遣した。
しかし、堅田を戦略上の要地と見ていた朝倉勢もこれを見逃さず、翌26日には朝倉景鏡・前波景当の率いる朝倉勢に一向宗門徒たちの加わった大軍が堅田に侵攻した。
坂井らは必死の防戦によって大将の前波景当を討ち取りはしたが、数を恃む大軍に抗しきることができず、坂井らも討死を遂げるという大激戦となり、双方ともに多数の死傷者が出た。
なお、猪飼野らは船に乗って織田の陣に逃れることができた。