元亀元年(1570)夏の姉川の合戦に勝利して近江国横山城を降伏させた織田信長は、この城の守将として羽柴秀吉を入れ置いた。この横山城は、浅井氏の本拠・近江国小谷城を攻めるための最前線拠点として重要視されたのである。
この後しばらくは小谷城と横山城との間の戦線に大きな変化はなかったが、元亀2年(1571)5月6日、浅井長政が小谷城から自ら兵を率いて出陣して横山城近くに布陣して牽制する一方で、武将の浅井井規に鎌刃城を襲わせたのである。長政がこの鎌刃城へ差し向けた兵力は、本願寺法主・顕如の檄を受けて信長を共通の敵とする江北の一向一揆勢も加えて5千人ほどであった。
鎌刃城は横山城の南方7キロほどに位置し、城主の堀秀村はかつて浅井氏に属していたが、姉川の合戦に先立って織田氏に通じ、その後は羽柴秀吉の与力として坂田郡の半分に勢力を扶持していた。鎌刃城が落城して堀氏が織田氏から離れるようなことになれば、近江国への侵攻作戦は大きく後退することになるため、横山城と共に重きをなす城であった。
この報を受けた秀吉はすぐに援兵を出すことにしたが、浅井勢の本隊に横山城を牽制されているため、城兵の多くを割くわけにはいかない。このため秀吉は横山城の守備を竹中重治・加藤光泰や弟の羽柴秀長らに任せ、自らは蜂須賀政勝・前野長康ら以下130ほどの手勢を鎌刃城の救援隊として組織し、出陣したのである。
夜中に密かに出陣して隠密裏に鎌刃に到着した秀吉は城兵と合流すると、箕浦に布陣していた浅井井規隊目掛けて一気に攻めかかった。鎌刃の兵と合わせても秀吉勢は6百ほどだったというが、果敢に井規隊を切り崩し、ついにはこれを敗走させた。琵琶湖伝いに北へと向かって逃れた井規隊は八幡の辺りで一旦は持ちこたえて反撃を試みたが、秀吉隊の猛追に再び崩れ、小谷城に逃げ込んだという。
一方、横山城の方でも浅井本隊の攻撃を受けたが、竹中重治の指揮によって無事に守りきることができ、北近江における拠点を確保し得たのである。