近江国東浅井郡小谷村の出身。通称は甚内。中務少輔・従五位下。
実父は田付孫左衛門、母は田付景治の妹であるが、母の再稼によって脇坂安明の養子となった。脇坂安明は浅井家の家臣で、観音寺城攻めのときに戦死した。
永禄12年(1569)、明智光秀に属して16歳で初陣、丹波国黒井城攻めで勲功を立て、剛将として名を馳せた赤井直正から雌雄の貂の皮の旗指物を贈られ、徳川の時代になっても行列の槍の先に貂の皮をつけた。
同年より羽柴秀吉の麾下となり、元亀元年(1570)の姉川の合戦などに従軍し、天正6年(1578)からの播磨国三木城攻めでは羽柴秀吉から輪違いの紋の母衣を与えられ、以後はそれを家紋とした。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では『賤ヶ岳の七本槍』のひとりに数えられて山城国に3千石を与えられ、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦では伊賀国上野城を攻めて功を挙げた。
天正13年(1585)7月には従五位下・中務少輔に叙任、8月に大和国高取城2万石、10月には淡路洲本城3万3千石の城主となった。
その後も九州征伐、小田原征伐などにも参陣。
天正20年(=文禄元年:1592)より始まる文禄の役においては九鬼嘉隆・加藤嘉明らと共に水軍の将として出陣した。慶長の役でも軍船を率いて朝鮮へと渡海し、その間に伏見城の普請工事なども勤めた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、当初は西軍に属していたが途中から東軍(徳川方)に呼応して所領を安堵された。この寝返りは合戦前より藤堂高虎を介して約束されていたものであり、合戦の流れを見て寝返った諸将とは違うものとされている。
慶長14年(1609)9月に移封、伊予国大洲城主5万3千石の領主となる。
元和元年(1615)に致仕して嫡子・安元に家督を譲り、元和3年(1617)に京都西洞院に閑居した。
寛永3年(1626)8月6日、同地で死去した。73歳。法名は臨松院殿前中書少卿平林安治大居士。
嫡子である安元の養子・安政のとき、播磨国竜野に転封となった。