島清興(しま・きよおき) ?〜1600

石田三成の家臣。名は清興だが、「島左近」での名の方が有名。「左近」は官名。また、勝猛(かつたけ)や知之とも伝わる。
武略に優れ、知略にも長けていたという。
はじめは大和国の筒井順慶に属し、松倉(右近)重信と並んで右近・左近と称された。ついでその養子・筒井定次に仕えた。
諫言を容れられなかったことから天正13年(1585)に筒井家を退去し、羽柴秀長に仕え、ついで秀長の養嗣子・秀保に仕えた。
文禄4年(1595)に秀保が没すると、人物を見込まれて高禄をもって石田三成に招かれた。当時の三成の知行は4万石で、清興はその半分に近い1万5千石を提示されたという(ただし、この仕官の年や知行禄高には異説もある)。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役には、9月14日に美濃国杭瀬川で中村一忠の軍勢を破る活躍を見せたが、翌15日の主力戦(関ヶ原の合戦)では石田軍の前衛となって黒田長政細川忠興らの大軍に向かい、銃弾を受けて討死した。
秀吉の没後、徳川家康が天下取りを目論む動きを見せはじめたときより、三成に家康を討つようにと度々進言してきたが聞き入れられず、この合戦を死に場所と思い定めて獅子奮迅の働きを見せたという。