木津川(きづかわ)沖の海戦:その2

石山本願寺を取り囲んでの攻囲戦に出た織田信長であったが、天正4年(1576)7月に海戦で毛利水軍に敗れ、制海権を奪われていた(木津川沖の海戦)。石山本願寺を完全に孤立させるためには、毛利水軍を撃破することが命題であった。
そして天正6年(1578)6月、信長の命を受けた滝川一益九鬼嘉隆がそれを実現させる大船を完成させたのである。とくに九鬼嘉隆による6艘の大船は、『日本丸』と呼ばれる史上初の装甲戦艦であった。この日本丸は、先の木津川沖の海戦において毛利水軍による焙烙玉・火矢による火炎攻撃に敗れたことから、その対抗策として鉄板の装甲を張りめぐらせてあったのである。さらには主要な武器として3門の大砲を装備していたというから、まさに戦艦である。
6月26日、この大船7艘(うち1艘は滝川一益の建造による白木造りの大船)は多数の小船を伴い、大坂湾を目指して回航中であったが、淡輪沖あたりで一向一揆の船団と遭遇する。嘉隆は自船の堅牢さを信じて一揆勢を引きつけると大砲を一斉に放ち、まさに一瞬のうちに多数の敵船を轟沈させたのである。沈没を免れた船も、この新造鑑の底知れぬ戦闘能力に戦わずして逃散してしまったという。
7月17日、7艘の大船は無傷で堺に到着した。淡輪沖での戦果を伝え聞いていた信長が見物に出向いて来たほどであった。
11月6日、毛利氏の村上水軍6百艘が大坂湾に姿を現す。嘉隆はこれを受け、6艘の日本丸を主力とした水軍で迎え撃つために出陣した。
午前8時頃から両軍は木津川の河口付近で激突した。はじめ九鬼水軍が押され気味のようであったが、焙烙玉や火矢、鉄砲さえも受け付けないという防御力の高さを恃みに敵船を充分に引きつけ、村上水軍の指揮官の乗る舟に大砲攻撃を集中させた。これによって村上水軍の統率は麻痺し、九鬼水軍に散々に打ち破られたのである。正午頃には決着がつき、九鬼水軍の圧勝によって大坂湾の制海権は織田勢の手に戻った。これにより石山本願寺は毛利氏よりの糧道を断たれ、孤立することとなる。
こののちの天正8年(1580)に石山本願寺は信長に屈して開城することになるが、この海戦で大坂湾を制されたことが大きな要因になったと目されており、まさに石山合戦の帰趨を決定づけた一戦であるといえよう。