津軽為信(つがる・ためのぶ) 1550〜1607

大浦守信の子。天文19年(1550)1月1日出生。幼名は扇。従四位下・右京亮・右京大夫。弘前藩祖となった。
少年の頃から武将としての器量を謳われ、永禄10年(1567)、伯父である津軽大浦城主・大浦為則の娘・戌姫の婿となり、翌年(1568)に大浦氏を継いだ。
飛翔を期す為信は、津軽地方を支配する南部一族の内紛を突き、元亀2年(1571)5月、石川城(別称:大仏ヶ鼻城)に津軽郡代・石川高信を急襲(石川城の戦い)して自立を示し、それより和徳城、天正3年(1575)に大光寺城、天正6年(1578)には浪岡城、天正13年(1585)には油川城・田舎館城・横内城、天正16年(1588)には飯詰高楯城など南部氏の属城を蚕食して勢力を伸ばし、津軽地方を統一した。
これに対し南部氏当主・南部信直はこれを奪還しようと企て、配下諸将に津軽氏討滅を命じたが、九戸政実以下の諸将は、事前に為信と密かに結んでいたためにこれを拒否。一方の為信は小田原討伐に向かう羽柴秀吉に沼津で謁見し、津軽3郡3万石の安堵状を得たことで既成事実を作り、信直の手を封じた。これを知った南部信直は先手を打たれたことに扼腕し、以降両家の反目の感情は江戸時代に至っても続いたという。
天正19年(1591)の九戸政実の乱に従軍。文禄年間の文禄の役に際しては肥前国名護屋に在陣した。文禄3年(1594)には伏見城の工事を分担、慶長元年(1596)に叙位・任官。
慶長5年(1600)の関が原の役では東軍に属して美濃国大垣城を攻め、戦後にはその戦功によって上野国大館に2千石を加増を得た。
慶長12年(1607)、京都にて療養中の長男・信建の見舞いのため赴いたが、為信の到着前に信建は死去し、為信も12月5日、京都で没した。58歳。法名は瑞祥院殿天室源棟大居士。
この為信は顎髭が胸まで垂れるほど長かったので「髭どの」と呼ばれていたという。また、智謀に長けていただけではなく民政家としても優れた手腕を発揮し、漆の栽培など、産業開発にも力を入れたという。