大崎義直の子。左衛門督。陸奥国玉造郡名生(みょう)城主。
大崎氏は南北朝時代に奥州管領に任じられた斯波氏の後裔であり、この義隆の時代には陸奥国の大崎6郡(黒川・賀美・玉造・栗原・遠田・志田)を領し、所領を接する葛西氏や伊達氏と抗争した。戦国時代に出羽国にて勢力を伸張させた最上氏も斯波氏の後裔で、大崎氏と同族である。
天正15年(1587)の暮れ頃より大崎氏の内部では君寵のもつれから家中が二派に分かれて内紛が生じていたが、この内紛に、大崎氏重臣で玉造郡岩出山領主の氏家吉継が伊達政宗に支援を要請し、その軍勢を手引きしたことによって翌天正16年(1588)2月の中新田城の合戦(別称:大崎合戦)が起こった。
この抗争は最上義光による伊達氏への牽制や黒川晴氏の援軍、中新田城代・南条隆信の奮闘もあって伊達勢の撃退に成功し、同年7月には保春院(義光の妹で、政宗の母)の挺身的な調停によって和議を結ぶも劣勢を覆すには至らず、翌天正17年(1589)4月には最上氏との縁を断って大崎領を『馬打ち(軍事指揮下)同然』とすることで政宗と講和した。
天正18年(1590)の小田原征伐においては不参の罪で羽柴秀吉に所領を没収されたが、のちに蒲生氏郷に仕えて文禄の役に出陣、晋州城の戦いに参加したという。
さらには上杉景勝に仕え、慶長5年(1600)には2千7百石を与えられていたという記録が残る。
慶長8年(1603)、会津にて没した。天正16年3月に自刃したという説もある。