伊達政宗は最上義光や蘆名盛重(佐竹義広)、さらに佐竹義宣らと敵対していたため、伊達領の背後に位置する大崎義隆を早めに討たなければならないと考えていた。ちょうどそのような折、大崎氏の重臣・氏家吉継が政宗に援軍を求めてきたのである。事の発端は義隆の寵童同士の争いが大崎家中の内紛へと拡大されたものであった。
ここに大崎氏攻撃の名目を得た政宗は天正16年(1588)1月、宿老の浜田景隆を陣代とし、留守政景・泉田重光を大将に、小山田筑前を軍奉行に任じ、5千の兵をつけて大崎領に攻め入らせたのである。
大崎軍は中新田城に籠城する戦法を取った。2月2日、先陣の泉田勢が成瀬川を渡って中新田城に迫ったが、城の周りは低湿地で深田が続いていたために動きにくく、伊達軍の侵攻は容易でなかった。町に火を放たれて進軍できずにいたところへ大雪が降りこめ、泉田勢は近くの新沼城に撤退を余儀なくされたのである。また、後陣として牽制のために師山城を攻めていた留守政景軍も攻めあぐねていた。
政宗自身は大崎氏の縁族である最上氏の来襲に備えて米沢を動けず、しかも、政宗に内応してきた岩出山城主の氏家吉継も、大崎軍の抵抗にあって伊達軍に合流することができなかった。さらには鶴楯城主の黒川晴氏が開戦直前に大崎方に奔ったことも大きな誤算となっていたのである。
留守政景が師山城の囲みを解いたあと、師山城兵が中新田城攻めをしている伊達勢の背後に回ったために挟撃され、城を攻めている伊達勢がかえって守勢にたたされることになった。そのため、伊達軍主力は新沼城に閉じ込められる形になり、ついに留守政景は黒川晴氏を介して和議を調え、2月23日、泉田重光・長江月鑑の2人が人質となって籠城軍の救出を行うことができたのである。
5月に至り、最上義光の妹で、政宗の母である義姫の強引とも言える和平交渉によってようやくこの合戦は終息を得た。
この合戦を、大崎合戦とも呼ぶ。