最上義光(もがみ・よしあき) 1546〜1614

出羽国の大名・最上義守の長男。幼名は白寿。通称を二郎太。従四位下・右京大夫・出羽守・左近衛少将・侍従。
永禄3年(1560)に元服し、将軍・足利義輝より一字を与えられて義光と名乗った。
父・義守と湯治に行った16歳のとき、盗賊に襲撃されたことがあったが、このとき義光は一瞬のうちに2人を切り倒し、次には大男に飛び掛っていってねじ伏せてしまったという。このような剛勇ぶりに不安を抱いてのことか、義守は義光の弟・中野義時を寵愛し、義光を廃嫡しようとする動きを見せたために一時は内紛を起こした。当時の最上氏は米沢の伊達氏の風下にあり、この義光廃嫡の件には伊達氏の意向が働いていたともいわれている。
しかし最上氏重臣である氏家定直・守棟父子の奔走で元亀2年(1571)に最上氏第11代の家督を譲り受け、山形城主となった。
天正2年(1574)、義時が反義光派の天童氏らの国人領主を糾合して挙兵し、勢力を接する出羽国米沢の伊達輝宗もこれを支援したために苦戦を強いられたが、9月に伊達氏と和睦。これとともに義時との対立も沈静化したが間もなく再燃し、翌天正3年(1575)に義時を自刃させた。
こうしてようやく家中を掌握したのちの天正5年(1577)に村山郡天童舞鶴城主・天童頼澄を討ち、翌年には謀略を用いて上野山(上山)満兼を滅ぼすなど、天正8年(1580)頃までには反抗する国人領主らを屠って村山郡をほぼ制圧、以後は急速に勢力を伸ばした。
天正9年(1581)春、出羽国尾花沢で馬揃え(観兵式)を行い、その威勢を近隣領主らに示した。また、この頃から庄内地方への進出も企図し、尾浦城の大宝寺義氏と交戦。
天正12年(1584)6月、村山郡谷地城主・白鳥長久を謀殺。
天正15年(1587)10月、大宝寺義興を討って庄内地方を支配下に収めた。
またこの年の暮れ頃より、大崎氏の内紛に介入。同じくこの内紛に介入してきた伊達政宗と対立し、軍事衝突の様相を呈した。このとき、義光の妹で伊達家に嫁いでいた義姫(政宗の母)が最上・伊達領の境の山上に輿で乗りつけ、調停をさせるために80日ものあいだ居座って動かず、ついには両勢力の全面対決を回避させたという。しかしこの間に、上杉景勝に属す本荘繁長が庄内地方に侵攻、増援部隊を派遣できなかったため最上勢は敗れ、庄内地方を失った(十五里ヶ原の合戦)。
天正18年(1590)6月、徳川家康の勧めで小田原征伐に参陣。遅参を咎められたが、家康の取り成しで最上郡などの所領を安堵された。義光はこれに深く感謝し、以後、二男の家親を徳川氏に出仕させるなどして徳川氏への接近を図った。
天正19年(1591)1月に従四位下・侍従に叙任され、出羽侍従と称された。
天正20年(=文禄元年:1592)からの文禄の役には、肥前国名護屋に在陣。文禄3年(1594)、伏見城の工事を分担した。
文禄4年(1595)の豊臣秀次事件では、娘の駒姫が秀次の側室となっていたため、義光自身も聚楽第において謹慎を命じられた。
慶長元年(1596)、横手城主・小野寺義道と戦った。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では徳川方(東軍)に与し、直江兼続指揮下の上杉勢(西軍)と出羽国の畑谷・長谷堂で戦って敗れ、本拠の山形城も危うくなった(出羽合戦)が、東軍勝利の報を得た上杉軍が撤退したため、窮地を免れた。戦後には、村山・最上24万石の本領に庄内・由利・櫛引・飽海の4郡33万石を加増され、57万石の大封を領すこととなった。
慶長16年(1611)3月14日には従四位上左近衛権少将となる。
慶長19年(1614)1月18日、山形城で没する。享年69。法名は光禅寺殿玉山白公大居士。
民政家としても優れ、とくに城下町の整備や庄内平野の治水灌漑に意を注いだ。北楯利長を奉行に任じて築かせた『北楯堰』は、現代に至っても庄内地方を潤している。