最上氏の重臣。氏家定直の長子。尾張守。
最上義光に仕えて信頼も極めて厚く、義光の懐刀とも言われた。
天正2年(1574)の最上氏の内訌において伊達輝宗が介入してきた際、義光の使者として輝宗方と和解した。
智謀に長じ、天正6年(1578)の上山満兼家臣・里見民部少輔の調略、天正8年(1580)頃と推定される最上氏と延沢満延との和睦や、天正12年(1584)の村山郡谷地城主・白鳥長久の謀殺などはこの守棟の献策と言われる。
また、天正9年(1581)の真室城攻撃のときには義光の代官として指揮を執り、天正14年(1586)頃には来次氏の拠る出羽国飽海郡観音寺城を攻めてその周囲を平定するなど、軍事においても義光の片腕として活躍した。
最上氏も介入していた天正16年(1588)の中新田の合戦(大崎合戦)においては、強引とも言える保春院(最上義光の妹で、伊達政宗の母)の和睦調停を伊達氏重臣・片倉景綱と協議しており、義光が天正18年(1590)の11月末に上洛した際には守棟が山形城代としてその留守を預かるなど、義光の分身としてその治世に貢献した。
天正19年(1591)、義光の代官として九戸政実の乱の征伐に参戦する。
その後の治績は不詳。晩年は健康に恵まれなかったという。