最上家臣。実名は不詳。里見越後守の子。民部少輔。
はじめ異母兄・里見内蔵助とともに出羽国村山郡上山城主・上山満兼に仕え、天正2年(1574)に出羽国山形城主・最上義光が父の義守や弟の中野義時と抗争した際には主君・上山氏に従って義光方であったため、義守・義時方に味方した伊達輝宗の麾下・小梁川盛宗軍の攻撃を受けた。
その後(一説には天正6年:1578)、最上氏重臣・氏家守棟を介して最上義光に通謀して満兼と内蔵助を暗殺し、上山城とその旧領2万1千石を給されたという。
天正19年(1591)、義光の二男・家親が小姓として徳川家康に出仕するにあたって随行し、家康の知見を得た。のち、義光の許しを得て子・正光と職務を交代している。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役によって派生した出羽合戦においては、上山城に迫った上杉景勝の部将・本荘繁長や上泉主水らの軍を破り、戦後に長崎城主として1万7千石を領した。
慶長8年(1603)8月、義光は不和となった嫡子・義康に高野山への謹慎を命じ、のちに義康は討たれているが、一説にはこの義康殺害に里見民部も関与しており、身の危険を察知して一族と共に逐電、加賀国の前田氏に身を寄せたが、最上氏からの要求によって引き渡れる途次に殺害されたともいう。