中野義時(なかの・よしとき) ?〜1575

最上義守の二男。最上義光の弟。
最上氏支族で父・義守の実家である中野氏を継ぎ、出羽国中野城主となる。
義守は義光よりも義時を寵愛したため、最上氏の家督相続をめぐって義光との間に反目が生じ、元亀元年(1570)頃には不和となっていたと見られる。
この対立は最上氏重臣・氏家定直の必死の諫言で翌元亀2年(1571)に義光が家督を相続することで一応の落着を見たが、天正2年(1574)に再燃すると義兄の伊達輝宗や、天童頼貞・白鳥長久・蔵増頼真・延沢満延ら出羽国の国人領主の支援を取り付け、伊達氏らの軍勢を領内に呼び入れて義光を苦しめた。
しかし同年9月に白鳥長久の斡旋で義光と輝宗の和睦が成り、伊達勢が撤退すると他の領主らも歩調を合わせたため孤立無援となり、表立った反抗もできなくなったため義光調伏の祈祷を行わせたともいわれるが、翌天正3年(1575)に中野城を攻囲した義光に切腹を迫られて自害した。