最上義守(もがみ・よしもり) 1521〜1590

出羽国最上氏第10代当主。最上氏庶流・中野義清の二男。通称は孫三郎。修理大夫・右京大夫。栄林と号す。
永正17年(1520)2月に最上氏当主・義定が急死したのち、義定未亡人(伊達稙宗の妹)、ひいてはその背後にある稙宗が最上家中の実権を掌握していたが、これに天童氏らを中心とする最上支族の領主らが反発して挙兵したため、大永2年(1522)、わずか2歳の義守が最上氏の家督を継ぐこととなった。
天文3年(1534)に元服。
天文11年(1542)より顕著化した伊達氏天文の乱では、はじめ稙宗側に与したが、情勢を読んで天文17年(1548)初頭頃には晴宗方に鞍替えし、最上氏の存続を図っている。
永禄3年(1560)3月、寒河江城主・大河兼広を攻めたが果たせなかった。
最上氏次期家督相続の問題で、二男で実家の中野氏を継承していた義時を寵愛する義守は嫡子・義光と対立したが、元亀2年(1571)8月、義光に家督を譲ることで和睦して隠退、仏門に入った。しかし数年後、当主となった義光に反抗する一揆が蜂起すると、かつての相克が再燃したという。
天正18年(1590)5月20日に没した。