伊達稙宗(だて・たねむね) 1488〜1565

陸奥国伊達氏第14代。伊達尚宗の嫡男。母は越後守護・上杉定実の娘(一説には定実の姉妹)。通称は次郎。従四位下・左京大夫。陸奥守護。妻は蘆名盛高の娘。号は受天。
永正14年(1517)3月に将軍・足利義稙の一字を受けて稙宗と名乗り、左京大夫に任じられた。この左京大夫という官途はそれまで奥州探題の大崎氏が補任されていたものであり、さらには大永2年(1522)12月、それまで守護不設置であった陸奥国の守護に任じられたことで、大崎氏に比肩する権勢を得たことを意味する。
天文元年(1532)、それまで拠点としていた伊達郡梁川城から同郡の桑折西山城に居城を移す。
稙宗には14男7女の子女があったことが知られているが、大崎氏や葛西氏の内訌に介入して子息を入嗣させ、6人の娘を相馬顕胤蘆名盛氏・二階堂輝行・田村隆顕・懸田俊宗相馬義胤(相馬顕胤の孫)ら近隣の有力領主に入嫁させるという婚姻政策で陸奥国中南域における絶対的な勢力圏を築いた。
領国経営においては、天文4年(1535)に『棟役日記』、天文7年(1538)に『段銭古帳』を作成して領国内の徴税体制を整備するとともに、天文5年(1536)には『塵芥集』を制定して地頭領主(家臣層)からの裁判権の吸収・集中を進めて権力の集約化を図り、強固な戦国大名権力を形成した。
しかしこれらの強硬な政策が家臣団の反発を招くこととなり、三男・時宗丸(のちの伊達実元)を越後国上杉氏に入嗣させようとした(伊達時宗丸入嗣問題)ことが引き金となって天文11年(1542)に嫡子・晴宗が叛乱を起こし、これが南奥羽の諸家を巻き込む大乱となった。天文11年から6年間にも及んだ伊達氏天文の乱(別称を洞の乱)と呼ばれるものである。
この父子対立が大乱にまで発展した要因としては、稙宗の行使する棟役・段銭課徴の強化に対して地頭領主層は反感を募らせていたが、伊達氏の強大さゆえに叛くに叛けずにいたところに父子の対立が表面化し、それに乗じて爆発的に抗争が広がったものと見ることができる。
この争乱ははじめ稙宗方が優勢であったが、のちには晴宗方へ鞍替えする者も多く、天文17年(1548)9月、将軍・足利義輝の停戦命令を容れて和議に及び、伊具郡丸森に隠退するとともに家督を晴宗に譲ることで一応の落着をみた。
永禄8年(1565)6月19日に丸森で没した。78歳。法号は直山円入智松院殿。
『段銭古帳』などによれば、稙宗の時代における伊達領は伊達・伊具・柴田・名取・宮城・志田の諸郡に渡っている。