懸田俊宗(かけだ・としむね) ?〜1553

伊達家臣。通称は三郎。陸奥国伊達郡懸田城主。
主君・伊達稙宗の娘を継室に迎え、伊達時宗丸入嗣問題では稙宗とともに入嗣の強行を図った。この入嗣問題を契機として起こった伊達氏天文の乱に際しても稙宗に加担し、稙宗の嫡男で俊宗には義兄にあたる伊達晴宗陣営と戦う。
この抗争は晴宗が稙宗を桑折西山城に幽閉したことが端緒であるが、俊宗は小梁川宗朝らによって救出された稙宗を居城・懸田城に迎え、乱の初期段階においてはこの懸田城が稙宗陣営の拠点となっている。このために晴宗や晴宗の岳父・岩城重隆らの軍勢に攻撃されたが、よく城を守り、天文13年(1544)前後には相馬顕胤らと共に稙宗陣営の中心となって伊具郡や伊達郡、信夫郡などに侵攻している。
この乱は天文17年(1548)に将軍・足利義輝の停戦命令で終息したが、その講和条件によって懸田城は破却された。この後も一定の勢力を保持するも、不満は払拭されずに晴宗に叛意を募らせたが、天文22年(1553)7月に長子・義宗ともども誅殺されて懸田氏は滅亡した。