最上義康(もがみ・よしやす) 1575?〜1603

最上義光の長男。母は大崎義隆の娘。修理大夫。
天正14年(1586)5月、出羽国横手城主・小野寺義道が最上領の真室を目指して侵攻して来たときは楯岡満茂と共に出陣、有屋峠で迎撃した(有屋峠の合戦)。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役の端緒となった会津上杉征伐に際しては、東軍に与した最上勢の先陣に任じられている。しかし家康指揮下の上杉討伐軍が畿内で蜂起した石田三成らを討つために軍勢を上方に転じ、他の奥州諸将も上杉氏と和睦したために最上氏が上杉氏の標的となると、伊達政宗のもとへ援兵の要請に赴いた(出羽合戦)。
この出羽合戦において、はじめ最上軍は劣勢を強いられていたが、関ヶ原の合戦での東軍大勝の報を得た10月には逆襲に転じ、義康も弟・清水義親らと共に尾浦城奪還などに戦果を挙げている。
しかし、のちに父・義光と不和になり、慶長8年(1603)に高野山への謹慎を命じられ、その途次の田川郡櫛引村で刺客・土井半左衛門らによって殺害された。慶長8年8月16日、法号は浄念寺補天哀公。
義光は関ヶ原の役以後の徳川氏の優位を不動のものと見て、幼時から徳川氏に仕えていた二男・家親を後継者にした方が有益と考えて、義康を除いたといわれている。
また一説には、義康の高野山謹慎は一時的なもので、のちに義光は義康を呼び戻すつもりであったが、家親付きの家臣・里見民部らが家親のもとで家中の実権を握ろうとして凶行に及んだ、ともされる。