大宝寺義氏の弟。本姓は武藤。別称を氏高。兵庫頭。はじめ出羽国丸岡城に拠っていたため、丸岡兵庫とも称した。
天正11年(1583)3月に国人一揆や東禅寺義長らの急襲を受けて敗死した兄・義氏のあとを受けて大宝寺氏の家督を継ぎ、出羽国田川郡尾浦城主となる。
出羽国庄内地方を勢力基盤とし、東禅寺氏が後ろ楯に出羽国山形城主・最上義光を恃むと、義興は越後国上杉氏の重臣・本荘繁長の支援を得てこれに対抗した。天正13年(1585)6月には最上方の清水城を攻めているが、天正14年(1584)7月頃に伊達政宗の仲介で和議を結んだ。また、同年の秋頃に本荘繁長の二男・義勝を養子に迎え、関係の強化を図っている。
天正15年(1587)には東禅寺・最上氏との抗争が再燃し、翌月には再び伊達政宗に和睦の斡旋を依頼している。8月には一旦は和睦が成立したようであるが、10月に至って最上勢が庄内に侵攻してくると田川郡の松根・黒川付近で迎撃したが、背後から東禅寺勢にも攻められて大敗を喫して自刃、尾浦城も落城した。