上杉氏重臣・本荘繁長の二男。本荘顕長の弟。幼名は千勝丸。通称は四郎次郎。左京大夫・出羽守。後年には本荘出羽守充長と称す。
天正14年(1586)の秋頃、出羽国庄内地方の領主である大宝寺義興の養子となった。
天正15年(1587)10月、義父の義興が最上義光・東禅寺義長らの挟撃を受けて討たれた際には越後国境に近い小国城へ逃れ、実家の本荘氏を頼ったとみられる。天正16年(1588)8月には実父・本荘繁長と共に最上氏との庄内地方をめぐる決戦に臨んで勝利し(十五里ヶ原の合戦)、最上勢力を駆逐して庄内地方を征圧したのち、大宝寺氏の名跡を継承して出羽国田川郡尾浦城主となった。
天正17年(1587)7月に上京して羽柴秀吉に謁して太刀・銀などを献上、従五位下・出羽守に叙任され、豊臣の姓を与えられた。
しかし天正18年(1590)の小田原征伐直後に行われた庄内地方の検地に際し、これに反発する地侍や農民による一揆が蜂起。この庄内一揆は上杉氏重臣・直江兼続によって天正19年(1591)5月に鎮圧されたが、繁長・義勝父子がこの一揆を扇動したとの嫌疑をかけられ、改易されて大和国に配流された。これにより、大名としての大宝寺氏は消滅する。
その後は繁長と共に大和国に蟄居していたが、天正20年(=文禄元年:1592)に秀吉が朝鮮出兵(文禄の役)を企てるに際して父と共に肥前国名護屋に参じたことによって許され、家臣として上杉氏に帰参した。文禄3年(1594)10月に秀吉が京都伏見の上杉邸に来臨した際には父子ともに謁見を許されており、同年の『文禄三年定納員数目録』によると約1千石の知行地を領しており、軍役負担が59人半である。
のちに名を本荘充長と改め、慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては父と共に陸奥国福島城を守備し、伊達政宗勢と戦った。
慶長15年(1610)12月25日に将軍・徳川秀忠が江戸の上杉邸に来臨した際には陪席し、御服と銀子を賜っている。
慶長18年(1613)の繁長没後には本荘氏の家督を継ぎ、慶長19年(1614)の大坂冬の陣に従軍した。