東禅寺義長(とうぜんじ・よしなが) ?〜1588

官途は筑前守。はじめ大宝寺氏(武藤氏)に属して前森蔵人と名乗っていた。
天正11年(1583)3月、出羽国庄内地方の国人領主と結託して庄内の大名・大宝寺義氏をその居城の尾浦城に急襲して討った。その後、出羽国東禅寺城に拠って東禅寺義長と名乗る。
義長は大宝寺義氏のあとを継いだ大宝寺義興とも激しく対立したため、出羽国山形城主・最上義光に通じて大軍の援助を要請し、天正15年(1587)10月に最上氏と協力して大宝寺氏を討ち滅ぼした。
この後、義光より庄内地方の統治を委ねられたが、翌天正16年(1588)8月、逃げ落ちていた義興の養子・大宝寺義勝とその実父である本荘繁長に庄内地方へと攻め込まれ、十五里ヶ原の合戦で弟の勝正と共に討死した。