大宝寺義氏(だいほうじ・よしうじ) 1551〜1583

出羽国庄内地方の国人領主。大宝寺義増の嫡男。通称は四郎次郎。出羽守。はじめ大宝寺(鶴岡)城主、のちに尾浦城主。
大宝寺氏の本姓は武藤氏。鎌倉時代に武蔵国の御家人・武藤頼平の子である氏平が出羽国大泉荘の地頭となって大泉氏を名乗り、大宝寺城を居城としてからは大宝寺氏と称された。
越後国の上杉謙信に属していた父・義増は、永禄11年(1568)3月に上杉家臣・本荘繁長が謙信に叛くとこれに同調したが、同年中には繁長の不利を見て上杉氏に降伏。これに伴って出家するに際して義氏が家督を譲られたとみられる。
元亀元年(1570)には湊安東氏の内訌を機として生じた安東愛季と小野寺輝道の抗争を仲介し、同年に大宝寺氏の庶家で義増の代からの重臣でもある土佐林禅棟と決裂したが、翌年までには屈服させて家中の権力を掌握。天正6年(1578)頃には最上川北の有力領主で観音寺城主の来次(きすぎ)氏を降して被官とするなど、家中のみならず近隣領主への影響力を増大させ、庄内地方を支配する大名に成長した。
また、中央政局への接近を図って天正7年(1579)7月には織田信長に馬5匹と鷹15羽を贈り、屋方号を許されている。
しかし性急な領土拡張政策は麾下とした領主らの反発を招き、天正9年(1581)頃から鮭延秀綱の帰属をめぐって最上義光との対立が顕著になり、時をほぼ同じくして由利郡をも窺ったため安東愛季との関係も緊張を増し、この両者を首魁とする包囲網を形成された。
そして天正11年(1583)3月6日、居城の尾浦城を庄内の国人らに包囲され、義光と通じていた重臣・前森蔵人(東禅寺義長)らに急襲されて自殺した。享年33。
傲慢であり、苛政を布いたため「悪屋方」と呼ばれたという。