安東愛季(あんどう・ちかすえ) 1539?〜1587

出羽国の戦国大名。檜山安東氏・安東舜季の子。母は湊安東氏・安東堯季の娘。通称は下国安東太郎。妻は砂越也足軒の娘。従五位上・侍従・秋田城介。出羽国檜山城主。
天文22年(1553)、父・舜季の死没により15歳で檜山安東氏の家督を継ぐ。
永禄5年(1562)、出羽国比内郡の浅利則祐・勝頼兄弟の内訌に介入、勝頼を支援して則祐を自刃させ、比内郡への進出を果たした。その後は隣接する南部氏領の陸奥国鹿角郡への進出をも企て、永禄9年(1566)から永禄11年(1568)の間、長牛(なごし)城をめぐって南部晴政と一進一退の激しい攻防戦を交えた。
元亀元年(1570)、湊安東氏の家督を継いでいた弟・茂季の家臣である下刈右京・川尻中務が豊島郡豊島城主・畠山重村(別称を豊島休心)と結んで謀叛を起こすと、即座に鎮圧して茂季を豊島城主に据え、自らは湊安東氏の本城である湊城に入ってその実権を握り、実質的に檜山・湊の両安東氏を掌握した。
中央政界への外交戦略も積極的に行い、天正2年(1574)には織田信長に鷹を献上して誼を通じ、天正5年(1577)8月には信長の斡旋で従五位下の位階を得ている。
天正7年(1579)に茂季が没すると長男の業季を湊城に入れて湊安東氏の所領を吸収し、二男の実季を檜山城に配し、自らは男鹿半島南端の脇本城に入る。
天正9年(1581)、叛旗を翻した浅利勝頼の軍勢を鎮圧して比内郡を平定。天正11年(1581)3月27日にはこの勝頼を檜山城に招いて謀殺し、比内郡を自領に併合した。
天正10年(1582)、北進を企てる出羽国庄内地方の大名・大宝寺義氏との抗争が本格化するが、山形城主の最上義光と結んでこれに対抗。
天正15年(1587)、唐松野で角館城主・戸沢盛安と対峙するが(唐松野の合戦)病に倒れ、療養のため脇本城に戻ったが9月1日に没した。享年49。