鮭延秀綱(さけのべ・ひでつな) ?〜?

最上家臣。近江源氏の子孫で、近江佐々木氏の一族といわれる。佐々木貞綱の子。典膳、のち越前守。佐々木典膳とも。名を愛綱としている資料もある。
永禄6年(1563)、父・貞綱が大山城の武藤氏(大宝寺氏)に敗れ、秀綱は人質として送られた。のちに逃げ帰り、跡を継いで最上郡鮭延城主となった。
はじめは仙北の小野寺氏に仕えて真室郷を給され、一時は庄内の武藤氏に同調したこともあるが、最上家の宿老・氏家氏の調略によって和解、天正9年(1581)以後は最上氏の忠実な重臣として活躍した。
天正18年(1590)、仙北地方の検地反対一揆鎮圧のため、湯沢城に在番した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際して派生した出羽合戦においては長谷堂城の側面にあって上杉軍と戦い、よく長谷堂城を援護した。また、柳田城の小野寺氏をも攻めている。
真室城にあって1万1千5百石を給せられていたが、のちに金山城に移封、金山城主となった。
元和8年(1622)、最上家の改易により土井利勝に預けられたがのちにその臣となり、1千石を与えられた。
武略だけでなく文学にも長じ、智謀の士でもあったという。