北楯利長(きただて・としなが) ?〜?

最上家臣。大学助。治水事業家。
慶長6年(1601)より出羽国田川郡狩川城番を勤め、3千石を与えられた。
慶長11年(1611)、利長は庄内平野一帯が深刻な水不足に悩まされていたことを憂い、川床が高く水量の豊富な立谷沢川の水を清川山を切り割って開堰し、狩川から庄内平野に引水することを主君・最上義光に具申した。
この計画の規模の大きさに義光も躊躇したが、家臣・新関久正に「この工事は領民や領内の発展のために重要であり、これを放置すれば末代までの損失だ」と指摘されて意を決したという。
この大工事は利長の総指揮の下に慶長17年(1612)3月5日より行われた。
当初は難渋を極めたため、利長は秘蔵していた青貝の鞍に大石を結んで川に沈めて龍神に祈りを捧げたとも、投げ込んだ鞍が沈むか流されるかで工事の成就を占ったとも伝わる。その後に工事は順調に進み、本流の工事がほぼ完了したのが同年7月21日であった。
この全長34キロにも及ぶ堰を現在では『大学大堰』や『北楯堰』と称しており、石高は開堰後20年で当初の3千石から3万石に増加した。
のち、義光から「庄内末世の重宝を致し置き候」と絶賛され、3百石の加増を受けた。
生没年ともに不詳であるが、10月20日没、法名は大椿院殿山翁良公大居士と伝わる。