留守政景(るす・まさかげ) 1549〜1607

伊達一族。伊達晴宗の三男。伊達輝宗の弟。通称は六郎。従五位下・上野介。雪斎と号す。
留守氏第17代・留守顕宗の娘を妻とし、顕宗が永禄10年(1567)3月に隠居するにあたって入嗣して留守氏を継ぎ、陸奥国宮城郡高森城主となる。政景は当初、石川氏への入嗣を約されて『石川御曹司』と称されていたが、顕宗とその実子・孫五郎の病弱を理由としてこの変更がなされたという。
以来、伊達氏の親族として軍役を担い、伊達輝宗・政宗に従って諸所の合戦に参陣する。
天正2年(1574)、最上義光とその弟・中野義時の抗争に介入した輝宗に従って出陣し、天正5年(1577)には相馬勢を警戒するため陣代として信夫郡小斎に在陣した。
天正13年(1585)11月には安達郡本宮での人取橋の合戦に従軍し、天正16年(1588)の1月から2月にかけては政宗に内応した大崎家臣・氏家吉継を加勢するため、泉田重光と共に総大将として玉造郡大崎へ5千の兵を率いて出陣したが、戦機を見誤って敗戦を喫している(中新田の合戦)。
天正18年(1590)、羽柴秀吉の東征(小田原征伐)の際に参陣が遅れたために所領を没収されると伊達氏の麾下となり、黒川郡大谷の地を与えられて大谷城主となる。
天正19年(1591)9月、主家である伊達氏の陸奥国玉造郡岩出山への移封にともない、磐井郡黄海(きのみ)に移住して2千貫文を領した。
天正20年(=文禄元年:1592)の文禄の役では政宗に従って出陣、渡海した。この頃に伊達の姓を与えられ、一門の家格に列せられている。
慶長5年(1600)の出羽合戦に際しては、最上義光への援軍として出陣して上杉景勝勢と戦い、戦後には徳川家康にその功を称されたという。
慶長9年(1604)、磐井郡一関城に移住して約2万石を治め、慶長12年(1607)2月3日に死去した。享年59。法名は大安寺殿高嶽玄登大居士。