人取橋(ひととりばし)の合戦

天正13年(1585)10月、二本松城主・二本松(畠山)義継伊達輝宗を人質にして逃走中、高田原において輝宗の子・政宗によって輝宗もろとも殺されるという事件がおきた。
政宗は輝宗の弔い合戦と、義継の死によって弱体化した畠山領を攻めるべく、二本松城に攻めかかった。それを受けて畠山氏では義継の子・国王丸が擁立され、常陸国の佐竹義重をはじめ、会津の蘆名亀王丸や岩城常隆・石川昭光・白川義親ら南奥羽の武将たちが連合して、政宗と戦うために軍事行動を起こしはじめた。これら武将たちにとって、伊達家のこれ以上の南下は何としてもくいとめなければならなかったからである。
このときの動員兵力は、畠山・佐竹・蘆名らの連合軍の軍勢は約3万。それに対する伊達軍は8千でしかなかった。
11月17日、政宗は奥羽街道と会津街道の交わる要衝の地・本宮に布陣し、自らはその南の観音堂山に本陣を置いた。本陣の前には亘理元宗・国分政重・留守政景・原田宗時・鬼庭良直らが主力部隊の4千を率い、伊達成実は1千余の兵を率いて、遊撃隊として瀬戸川館付近に布陣した。
一方の連合軍は兵を3隊にに分け、1隊は伊達本陣の南にある高倉城へ向けて、1隊は中央正面より、残る1隊は会津街道からの主力部隊という陣立てであった。
戦いはこの南観音堂山の麓、瀬戸川周辺で激戦となり、多数の死者が出た。そのためにこの付近を人取橋と呼ぶようになったという。
老将・鬼庭良直が討死するなど、伊達軍は幾度となく苦境に立たされたが、伊達成実・片倉景綱らの奮迅の働きにより挽回し、その日の戦いは引き分けた。伊達勢に426人、連合軍に961人が戦死したという。
ところがその日の夜、佐竹方に、留守中を里見家が狙っているという情報がもたらされ、義重は急に兵を引いてしまったのである。これにより、決定的な勝敗の決着を見ないままにこの合戦は終結した。