亘理元宗(わたり・もとむね) 1530〜1594

伊達一族。伊達稙宗の十二男。母は亘理宗隆の娘。伊達晴宗の弟。幼名は乙松丸。従五位下・兵庫頭。入道して元安斎と号す。陸奥国亘理郡亘理城主。
外祖父・亘理宗隆の養子となっていた同母兄・綱宗の戦死後にあとを継いで亘理氏に入嗣し、その名跡を継承した。
伊達輝宗政宗父子に従って諸戦に参じ、とくに対相馬氏との戦いで活躍した。
永禄9年(1566)には相馬(弾正大弼)盛胤を誘って伊達領の伊具郡に侵攻させているが、以後は伊達方に復帰し、永禄13年(=元亀元年:1570)4月には伊達氏に叛いた中野宗時・牧野久仲父子を刈田郡内で迎え撃って相馬領へ敗走させ、その行賞として置賜・名取・伊具郡のうちで所領を加増された。また、翌元亀2年(1571)に相馬勢が信夫郡浅川にまで攻め入った際にも戦功を挙げ、竹に雀の紋を許されている。
天正2年(1574)、最上義光最上義守中野義時父子の内訌に際しては出陣して和睦の使いを務め、天正6年(1578)に輝宗が御館の乱に乗じて越後国に出陣した際には伊具郡の相馬氏に備え、その背後を守った。天正10年(1582)には調略で小斎城を奪還、天正12年(1584)5月には伊達氏と相馬氏の和睦が成って伊具郡の金山・丸森両城が返還されたが、これにも元宗や子・重宗の功績が大きかったという。
天正16年(1588)の郡山の合戦にも在陣し、天正18年(1590)秋に葛西・大崎氏旧臣が蜂起した際には、佐沼城に押し込められた木村吉清・清久(秀望)父子を救出するため、政宗に代わって出陣して指揮を執ったが、負傷している(葛西・大崎一揆)。
天正19年(1591)、主家である伊達氏の岩出山転封にともなって遠田郡涌谷8千石の領主となり、一門の家格に列せられた。
文禄3年(1594)6月19日に死去。享年65。