葛西(かさい)大崎(おおさき)一揆

天正18年(1590)、羽柴秀吉によって小田原征伐が敢行された。
この小田原征伐とは相模国小田原城に拠って秀吉に服属しようとしない北条氏政氏直父子を征伐するためのものであったが、その裏には別の意図が隠されていた。つまり秀吉はこの討伐軍を催すにあたって全国の大名に動員令を発し、これに従って派兵すれば良し、従わない者は豊臣政権に敵対する勢力として「色分け」をするためのものだったのである。
この動員令を受けた大名のほとんどは秀吉の威風を恐れて小田原征伐に参陣したが、動員令に応じない、あるいは形勢を観望して参陣が遅れた大名らは戦後処理において所領を没収、あるいは大きく削減され、とくに陸奥国における諸勢力の版図は大きく変えられることとなった。
つまり、小田原に参陣しなかった寺池城主の葛西晴信、名生城主の大崎義隆、鶴楯城主の黒川晴氏、三春城主の田村宗顕、白河城主の白川(小峰)義親らは所領没収、参陣が遅れた黒川城主(当時)の伊達政宗は会津・岩瀬・安積・安達の諸郡を召し上げられ、代わって秀吉の命を受けた蒲生氏郷が奥州統治の中枢として会津や旧白川・石川領であった仙道5郡を与えられて黒川城に入部、旧葛西領は木村吉清、旧大崎領は吉清の子・木村清久(秀望)が領することとなったのである。

しかし旧葛西・大崎領ではこの新体制による統治は受け入れられず、同年の秋頃より大規模な一揆が勃発し、木村父子が佐沼城に押し込められるという事態に陥った。その原因としては木村父子が暴政を布いたことや太閤検地を強行したことなどともされるが、その裏側には混乱を誘発し、それに乗じて勢力を拡大しようと目論む伊達政宗による扇動や武器の供給があったといわれている。
この一揆を鎮定するために蒲生氏郷が出馬することとなり、氏郷は政宗に先陣を求めた。しかし政宗も領国に一揆の不安を抱えていたために対応は遅く、ために氏郷は政宗こそが一揆の通謀者であるとの見方を強め、両者の間には確執が生じるに至ったのである。
同年の暮れ頃、伊達勢の手によって木村父子は救出されたが、氏郷からの注進を容れた秀吉は氏郷・政宗の両者に上洛を命じる。
これを受けた政宗は翌天正19年(1591)1月晦日、陳弁のために上洛。これにあたって金の磔柱を持参したことや、針で目に孔をあけた鶺鴒の花押を据えた書状を物証として、ようやく無罪を認められたのである。しかし、従来の所領であった会津近辺の5郡と米沢地方を取り上げられることとなり、その地と引き換えに葛西・大崎旧領を与えるとの内示を受けた。彼の地はまだ一揆勢力が残存していたため、鎮圧して自領にせよ、とのことにほかならない。

5月に帰国した政宗は休む間もなく出陣の準備に取りかかり、6月中旬には2万4千の兵をもって一揆の鎮定に乗り出した。一揆勢の拠点は、大崎領では加美郡宮崎城・古川城・百々(どど)城・一栗城など、葛西領では登米郡佐沼城・折立城などで、その総数は4万5千人と伝わる。
最初の標的となったのが宮崎城で、伊達軍の猛攻を支えきれず、6月25日に陥落。また伊達成実率いる軍勢も一迫城を鎮定し、この情勢を目の当たりにした古川城・百々城・宮沢城などの残党は戦わずして逃げ出した。
勢いに乗じた伊達勢は7月1日より葛西残党の籠もる最大の拠点・佐沼城攻めに取りかかった。この城は周りを大小の沼に囲まれ、外周には迫川の流れを利用するという「浮き城」で、難攻不落の名城として知られていた。しかし伊達軍は猛攻に猛攻を重ね、3日に攻落させる。この攻城戦では「佐沼城のなで斬り」として有名な掃討が行われた。「家中百姓3千余人、本丸に於て打ち殺し候。城中の死骸余り多く、人に人かさなりて土の色は何も見得申さず候」と記されるように、凄惨を極めたものだった。
この後にも生き残りの旧臣の一部が寺池城で降伏し、これによって一揆は完全に終息したのであった。