葛西晴信(かさい・はるのぶ) ?〜1590?

葛西晴胤の子。初名は信清。左京大夫・相模守。陸奥国登米郡寺池城主。
永禄10年(1567)に兄・義重(別名:親信)の早逝で家督を相続、陸奥国葛西七郡(松良・磐井(いわい)・高倉・竹駒・門岡・寺池・遠田)413郷を領して大崎氏と覇を競った。伊達氏と結び、元亀2年(1571)と天正元年(1573)の2度、大崎氏を破る。
永禄12年(1569)頃に上洛し、織田信長と接触した。
だが時勢を見誤り、天正18年(1590)の小田原征伐に参陣を怠ったために失領。この処分を憤り、佐沼城に拠って抗戦を試みるが、蒲生氏郷らに攻囲され、8月11日に自刃したという。法名は知山。
一説には、落城の後に前田家に預けられ、慶長2年(1597)4月に金沢で没した、ともいうが不詳。
なお、小田原征伐後の行賞で葛西・大崎氏の旧領を羽柴秀吉から与えられた俄か大名の木村吉清・清久父子は、検地や領内整備を急ぐあまり、両氏の遺臣による大一揆(葛西・大崎一揆)を誘発して失領した。