通称は直次・長八・団右衛門。
出自は定かではないが遠江国横須賀の生まれと伝わり、長じて上方へのぼり、加藤嘉明に仕えた。そこで歩小姓から鉄砲大将にまで累進した。
文禄の役のとき、加藤隊の存在を誇示するために4反の紺地の布に日の丸を染め抜いた大指物(旗)を背負い、戦場を疾駆した。この大仰な直之の姿に、見方はおろか敵さえもしばし息を呑んで見とれていたという。この働きによって350石の知行を与えられた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では嘉明に従って出陣したが、戦功に逸るあまりに抜け駆けを目論み、それを嘉明に咎められたことで憤慨して出奔した。
その後は小早川秀秋に1千石で仕えたが、秀秋の死後は松平忠吉、ついで福島正則に仕えたが、嘉明の干渉で浪人した。この間の一時期、妙心寺の僧となり鉄牛と号した。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣に際しては大坂に入城して大野治房に属し、池田忠雄や蜂須賀至鎮の陣を攻撃した。とくに12月16日には蜂須賀隊に夜襲をかけ、これを成功させている。この夜襲の際には、己の武名を挙げるために『夜討ちの大将・塙団右衛門』と書いた小さな板切れを多数ばらまいて引きあげたという。
慶長20年(=元和元年:1615)の大坂夏の陣では4月29日に浅野長晟隊を迎撃する際、同じ陣営の大野治長に属する岡部大学と激しい先陣争いを演じた。浅野隊は大野隊が来襲したことを知ると和泉国樫井に逸早く陣を布いたが、直之はこの争いに没頭するあまりに浅野隊の真っ只中にまで飛び込んでしまい、浅野隊の亀田高綱・上田宗古らと戦って討死したという。49歳。
加藤家退散後の流浪時代、常陸国水戸の愛宕神社に詣でた際に「悪事災難の場や重要の場にめぐり合わせたまえ」と祈ったという。戦乱こそが己の身の置き場、立身出世の機会であり、その到来を祈ったという逸話である。