宇喜多家臣。明石景親の子。名は守重で、全登は号名。この号名を「たけのり」と訓じる史書もある。官途は掃部頭。
キリスト教を厚く信仰したキリシタン武将として著名。洗礼名はジョバンニまたはジュスト。
家督相続後は父・景親と同様に客将として宇喜多秀家に属し、宇喜多家臣団で最大の3万3千余石の知行地を領した。
慶長4年(1599)の宇喜多家中で人事をめぐる内訌ののち、宇喜多氏重臣の戸川逵安・花房正成らが退去したあとを受けて国政を担う。この内訌には日蓮宗とキリスト教の信者による対立も内包していたとされるが、全登は中立の位置に在って事態の収拾に努めたという。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役においては、西軍の首領格として参与した秀家に従軍。東軍に属した戸川逵安からの降伏を勧める書状に対し、丁重な言葉を用いつつも敢然と拒否している。
同年9月の関ヶ原の合戦で西軍が敗北して宇喜多氏が没落すると浪人となり、備中国足守などに潜伏した。同じくキリシタンであった筑前国の黒田直之(黒田孝高の弟)に匿われていたともいう。
慶長19年(1614)、豊臣秀頼と徳川家康の関係が決裂すると、秀頼より「全国のキリシタン信者に信仰の自由を認める」との条件で招かれて大坂城に入り、同年の大坂冬の陣においては三ノ丸を守衛した。
翌慶長20年(=元和元年:1615)の大坂夏の陣においても豊臣方として参戦して奮戦の模様が伝えられるが、大坂城が落城すると戦場から離脱し、その後は消息不明となった。流浪の末、生国の備前国に帰って生涯を終えたとする伝承もある。