毛利勝永(もうり・かつなが) ?〜1615

豊臣家臣。父は豊前国小倉城主・毛利勝信(別称を吉成)。別称を吉政。豊前守。
父・勝信と共に羽柴秀吉に仕え、九州征伐後の天正15年(1587)、豊前国のうちで1万石を与えられる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役においては、父が西軍に属して出陣したため領国を守備するも、小倉城を黒田孝高勢に攻囲されて降伏、戦後に父と共に土佐国の山内一豊に預けられた。
しかし慶長19年(1614)に豊臣氏と徳川氏の関係が険悪となると、10月には豊臣秀頼の招きに応じて土佐国の配所を脱出して大坂城への入城を果たし、迎えた大坂冬の陣では二の丸の西方や三の丸の今橋口を守衛した。
慶長20年(=元和元年:1615)の大坂夏の陣においては、5月6日の道明寺の合戦に出陣したが濃霧に阻まれて遅参し、戦機を失って撤退した。
翌7日の総攻撃に際しては天王寺口に布陣し、徳川方の本多忠朝を討ち取るなどして奮戦したが、大坂城の落城にともない、5月8日に秀頼らに殉じて果てた。一説には秀頼の介錯を務めたのち、嫡男の勝家と共に自刃したという。