道明寺(どうみょうじ)の合戦

豊臣氏との再戦を決めた徳川家康は、直ちにその準備に取り掛かった(大坂夏の陣)。双方の兵力は諸書によって違いはあるが、徳川方が15万、大坂方は5万5千ほどとみられる。しかし、大坂冬の陣において大きな障壁となった広大な惣構えは講和条件によって破却されており、裸となった大坂城の防御機能は無に等しく、短期決戦となることは誰の目にも明らかであった。
家康は軍勢を大和方面軍と河内方面軍の二手に分けて進撃させ、大坂城の南郊で合流したのちに得意とする野戦に持ち込んで大勢を決する目論みであったが、大坂方もそれを予測して迎撃に出る。
徳川方の大和方面軍と大坂方の迎撃軍が激突したのは、大坂城の南東約20キロに位置する道明寺付近であった。

道明寺は、大坂城の南東約20キロの地に位置している。この地において、徳川方大和方面軍の中の水野勝成・伊達政宗らの兵約2万3千と、大坂方後藤基次の率いる2千8百とが激戦を行い、徳川方が圧勝した。
慶長20年(=元和元年:1615)5月5日の夜、大坂方の後藤基次真田幸村毛利勝永の3人は、明日の払暁を期して道明寺付近に集結し、奈良を経て河内国へと進撃してくる徳川方大和方面軍を国分あたりで迎撃するという作戦を取り決め、これに従って後藤隊は約束の刻限に道明寺に至った。ところが真田・毛利の両隊は、おりからの濃霧に進路を阻まれて未だ到着していなかったのである。
さらに基次は、徳川方が道明寺から2キロほど隔てた国分付近に既に布陣していることを知る。徳川方は前日の夜半から進撃し、野陣を張っていたのであった。
基次は友軍の到着を待たずに自らの手兵2千8百のみをもって徳川方大和方面軍2万3千にあたることを決意し、要衝の小松山を占拠したのである。
水野勝成・松平忠明・伊達政宗ら徳川方大和方面軍と大坂方後藤基次隊との戦闘は、この小松山周辺を舞台として午前4時頃から始められた。
有利な山上に布陣した後藤隊は初めは優勢に立ち、山下から攻撃する水野隊を苦戦させた。しかし伊達隊や松平隊が到着すると三方から包囲された形となり、勝敗は明らかとなった。ここを死に場所と覚悟した基次は自ら先陣を切って小松山を駆け下り、勇戦の末に伊達隊から浴びせられた銃弾に胸を貫かれて戦死し、後藤隊は壊滅した。時刻は正午に近い頃であったという。
多勢に無勢でありながら、延々8時間にも亘って善戦した基次の勇戦ぶりは、後々までも「御手柄、源平以来あるまじき」と語り継がれた。

この後藤隊討滅の功労者は伊達政宗隊であったが、このときの伊達隊は味方である神保相茂隊を同士討ちにしたとして、諸大名から軽蔑されることとなった。
伊達側の言い分では、神保隊が敗走したので全軍の崩壊を防ぐために射殺したというが、『難波戦記』によれば、神保隊が伊達隊に割り込んで後藤の兵を多く討ち取って引き上げるのを見た政宗が口惜しがって同士討ちにかけた、というのである。
また、島津氏の記録にも「伊達殿は、今度味方討ち申され候事。御前(将軍家の前で)は能く候へ共、諸大名衆笑い物にて、比興(卑怯)者の由御取沙汰の由に候」とあり、その非道が非難されている。

基次の戦死後間もなく、大坂方の薄田兼相・山川賢信らの隊が道明寺付近に到着したが、後藤隊を撃破して勢いに乗った徳川大和方面軍は、薄田・山川隊をたちまちのうちに撃破した。
この薄田兼相は、冬の陣において博労ヶ淵砦を攻められた際、守将でありながらも城下町で遊女と戯れている間に敵に砦を奪われるという不覚を取り、『橙武者』と軽蔑されていた。そこでこの日こそ恥辱を雪がんと決死の覚悟で出陣し、伊達隊の鋭鋒の前に散った。後藤隊との約束の時間に遅刻した真田幸村・毛利勝永の両隊が道明寺に到着したのはこのあとのことであった。
この大坂方の新手6千と大和方面軍との交戦が開始されたのはそれから間もなく、戦場を誉田に移して行われた。なかでも真田幸村の指揮する真田隊3千の勇戦ぶりはめざましく、後藤隊・薄田隊を壊滅させて大いに意気の上がっていた伊達隊をも後退させるほどであった。
しかし午後2時頃に至り、大坂方に八尾・若江戦線における木村重成長宗我部盛親隊の敗北を知らせる伝令が到着し、同時に退却命令が下されたために大坂方は大坂城へと退いた。
また徳川大和方面軍も、松平忠輝隊の遅参や伊達隊による同士討ちなどによる不調和から追撃を断念した。
大坂方の殿軍を担った真田幸村は退却に際して「関東勢百万も候へ、男はひとりもなく候」と声高に呼ばわったという。