豊臣家臣。隼人正。
はじめ羽柴秀吉に馬廻りとして仕えて勇名を馳せ、秀吉の没後はその遺児・豊臣秀頼に仕えた。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣には博労ヶ淵砦を守備したが、11月29日に徳川方の蜂須賀至鎮・池田忠雄・石川忠総らに攻略された。兼相は守将でありながらもこの前夜より城下町の遊女屋に泊り込んで酒宴に耽っており、その間に攻略されるという不手際を呈したため、『橙武者』と揶揄された。橙は大きさといい色といい見栄えはするが、味が不味いために正月の飾り物として以外には役に立たない、とされていたからである。
翌慶長20年(=元和元年:1615)の大坂夏の陣においては5月6日に道明寺に進軍し、徳川方の伊達政宗らと戦って討死した(道明寺の合戦)。この日の兼相は冬の陣での恥辱を雪がんと決死の覚悟を決めていたといい、先陣の後藤基次隊が破られて総崩れとなったところに突撃を敢行、堂々と奮戦して果てたという。
この兼相を講談で有名な豪傑・岩見重太郎と同一人物であるとする説もある。