板倉勝重(いたくら・かつしげ) 1545〜1624

徳川家臣。板倉好重の二男。通称は甚平・四郎右衛門。伊賀守・侍従・従四位下。
幼時に出家して玉庵和尚の弟子となって以来、30代半ばまで香誉宗徹と号して三河国碧海郡の永安寺にいたが、父・好重、弟・定重が相次いで討死し、兄・忠重は松平好景の家臣となっていたため、天正9年(1581)に徳川家康の命を受けて還俗、家督を継承した。
天正14年(1586)に家康が駿府に本拠を移すと随従してその町奉行となり、天正18年(1590)の徳川氏関東移封に際しては関東代官・小田原地奉行・江戸町奉行を兼帯した。
慶長6年(1601)、加藤正次・米津親勝と共に京都奉行に任じられ、慶長8年(1603)に家康が江戸幕府を開くと京都所司代に就任して検察・司法などの奉行職をを司り、親豊臣の色合いが強い京都・畿内において徳川幕府権力の浸透に努めた。
慶長14年(1609)、山城・近江国において加増されて1万6千石余を領す大名となる。
慶長17年(1612)より(金地院)崇伝と共に公家諸法度・勅許紫衣・諸寺入院法度などを発布して法制を強化するなど、朝廷・公家・西国諸大名の監視および支配の強化に功績があった。
寛永元年(1624)4月29日、京都堀川で死去。80歳。法号は傑山源英。