江戸幕府初期の重臣・本多正純が2代将軍・徳川秀忠の暗殺を謀ったと伝わる事件。
元和8年(1622)4月、秀忠は亡父・徳川家康の七回忌のために日光東照宮を参詣し、その帰途に正純の城である下野国宇都宮城に投宿する予定となっていたが、秀忠に「正純が寝所に吊天井を仕掛けて害そうとしている」との情報が届き、急遽宇都宮城入りを取りやめた。
この半年後の10月、正純は改易となった最上義俊の城を接収するために出羽国山形に赴いたが、「出羽国由利に配流」との幕命を現地で伝えられ、失脚となったのである。
正純が失脚したことは事実であるが、その原因は4月の吊天井の風聞ではなく、戦国時代からの徳川氏譜代家臣である本多氏と大久保氏の根深い反目を遠因とし、慶長18年(1613)1月の大久保忠隣の失脚は本多正純やその父・本多正信の画策によるもの、とした大久保氏側からの報復と見られている。