大久保忠隣(おおくぼ・ただちか) 1553〜1628

徳川家臣。江戸幕府の重臣。大久保忠世の嫡男。幼名は千丸。通称は新十郎。初名を忠泰。従五位下・治部少輔・相模守。
永禄6年(1563)より徳川家康の近習として仕え、元亀元年(1570)の姉川の合戦、元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦などに従軍する傍ら、その間に奉行職も勤めている。
天正16年(1588)に従五位下・治部少輔に叙位・任官。
天正18年(1590)、主家である徳川氏の関東移封にともなって武蔵国羽生城で2万石を領する。
文禄2年(1593)に徳川秀忠付の年寄(家老)となり、翌年には没した父・忠世の遺領を継いで相模国小田原城主となり、6万5千石の大名となる。
慶長5年(1600)、相模守に任官。同年の関ヶ原の役には秀忠の軍団に属して信濃国上田城攻め(上田城の戦い:その2)などに奮戦。しかし秀忠はこの上田城攻めに手間取り、予定されていた家康本軍との合流を果たせなかった。このため秀忠は家康後嗣としての地位も危ぶまれ、異母兄・秀康を推す声もあったが、忠隣の説得によって廃嫡を免れたという。
慶長10年(1605)に秀忠が2代将軍になると、忠隣の地位も秀忠付の家老から幕府老中となり、権勢を得るに至る。しかし慶長18年(1613)1月、キリシタン禁圧の総奉行として在洛中に改易に処され、身柄は井伊直勝に預けられたうえに所領も近江国栗太郡中村の5千石のみとなった。
この突然の更迭は、幕府の許可なく山口重信(山口重政の嫡男)に養女を嫁がせた咎によるものとされるが、幕府内における権力をめぐって反目していた本多正信の讒訴によるものともいう。
ちなみに元和8年(1622)10月に正信の嫡子・本多正純が失脚しているが、これは忠隣の改易を本多父子の謀略と見なした大久保氏側によって仕掛けられた報復措置ともされる(宇都宮吊天井事件)。
元和2年(1616)に剃髪し、道白と号す。
寛永5年(1628)6月27日死去。享年76。