最上義俊(もがみ・よしとし) 1606〜1631

最上家親の子。通称は源五郎。初名は家信。妻は南部利直の娘。
元和3年(1617)、父・家親の急死を受けて家督を継承し、12歳で出羽国山形藩主となる。
父の急死は家臣間の主導権争いによるものとも見られており、この家督相続の際には、江戸幕府から最上家臣に宛てて「主君を盛り立て先規に従って政道を行うよう」に土井利勝ら5名連名の御条目を下され、さらに元和6年(1620)9月には幕府より監使を送り込まれるなど、異例とも言えるほどの厳しい干渉を受けた。
しかし元和8年(1622)、松根光広の告発をきっかけとして家中の分裂が明らかとなると、同年8月に藩政の乱れを理由に改易に処されて所領を没収され、近江国蒲生・愛知・甲賀の3郡と三河国内に合わせて1万石を与えられて近江国大森藩主の初代となった。この改易後に義俊と名乗る。
寛永8年(1631)11月22日に死去した。26歳。法号は月照院殿華嶽英心。
義俊の死後はわずか2歳の嫡男・義智が家督を継いだが、所領は近江国蒲生郡の5千石のみに削減され、「交代御寄合表向御礼衆」として旗本の身分となり、大名としての最上氏はここに終わった。