最上家臣。最上義光の弟・長瀞義保の子。備前守。
最上義光・家親・義俊の3代に亘って仕える。
はじめ出羽国田川郡松根城主。天正12年(1584)に最上氏が寒河江氏を討ち、その旧領のうちの村山郡の白岩城の支配を委ねられ、湯殿山を挟んで南北の地1万3千石を領した。
天正20年(=文禄元年:1592)の文禄の役に際し、義光に従って出陣している。
義光の存命中はあまり表面に出ることはなかったが、慶長19年(1614)の義光没後は山形城の政治にも参加するようになり、官吏型武将によってなる反主流派の中心人物となった。
元和8年(1622)、5年前の最上家親の急死を楯岡光直らによる毒殺と幕府に訴えたが、審理の結果、事実無根として逆に罪に問われて失脚、筑後国柳川の立花宗茂に預けられた。