立花宗茂(たちばな・むねしげ) 1567〜1642

永禄10年(1567)、筑前国岩屋城に生まれる。実父は高橋紹運、母は斎藤鎮実の女(妹か)。幼名は千熊丸、のちに宗虎、統虎、鎮虎、正成、親成、尚政、俊正、信正、経正と10回ほど改名した。宗茂と名乗るのは晩年のことである。
通称は弥十郎。左近将監・羽柴柳川侍従・飛騨守・従四位下。号を立斎。筑前国立花城主、のちに筑後国4郡の領主として柳川城主。
天正9年(1581)、男児のなかった立花道雪の娘・立花ァ千代を妻とし、立花家に婿養子として入る。天正13年(1585)、道雪が筑後国に在陣中に死去したことによって家督を継いだ。
剛直にして律儀、その勇猛さで名高かった。
天正14年(1586)7月、島津勢が実父・紹運の守る岩屋城を落したあとに立花城を包囲されたが、寡勢よく守り、翌15年(1587)、島津勢の豊後国への移動に際してこれを叩き、羽柴秀吉から感状を与えられる。九州征伐後、秀吉より羽柴の氏を与えられ、筑後国柳河13万石に封ぜられた。
同年9月、肥後国人一揆を討伐。この功に報いるために秀吉が宗茂を従四位侍従に叙任しようとしたとき、「ありがたき仰せなれど、主筋の大友義統が五位であるからには、それを超えるのは筋ではございませぬ」と言って五位の叙任を望んだという(しかし、のちには四位に叙任されている)。
文禄の役では小早川隆景らと6番隊を成して碧蹄館の戦いなどに奮戦、慶長の役でも蔚山城救出に活躍した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では西軍に加担して伏見城・大津城を攻めてこれを攻略したが(伏見城の戦い大津城の戦い)、関ヶ原の合戦で西軍が大敗すると本領の筑後国柳川へと落ち延びた。このとき、同じく西軍に与して落ち延びる途次の島津義弘と一緒になった。立花勢はほぼ無傷であるのに対して、壮烈な敵中突破を敢行してきた島津勢は7、80騎ほどである。これを見た家臣が「今こそ(島津勢に討たれた)お父上の仇討ちをなさるべきである」と密かに勧める者もあったが、宗茂はそれを「勇士の所業にあらず」とかえって叱りつけ、島津勢と心を合わせて九州へと下ったという。
こののち柳川城に籠もって東軍勢力の鍋島勝茂・加藤清正らの軍と戦った。このとき、さきの九州落ちのときのことを恩に着た島津勢は宗茂に援兵を送っている。が、もはや勝ち目なしと見て遂には降伏、開城した。
のち浪人したが、加藤清正に厚遇され、慶長9年(1604)に徳川家康に仕え、陸奥国棚倉に1万石を与えられた。その後の大坂冬夏の陣で戦功があり、元和6年(1620)に旧領を回復して柳河10万9千石の城主としての返り咲きを果たした。
寛永14年(1637)に致仕したが同年、島原の乱が起こると子の忠成と共に有馬城を攻略した。
寛永19年(1642)11月25日、江戸にて没した。76歳。法号は松隠宗茂大円院。
羽柴秀吉をして「東国にかくれなき本多平八(忠勝)に、西国無双の立花宗茂」と称されるほどに勇猛な武人であると同時に、茶の湯や能への造詣も深かったという。