九州南端の薩摩国より北上してきた島津氏は、『肥前の熊』と恐れられた龍造寺隆信を天正12年(1584)の沖田畷の合戦で敗死させると、大友氏の領国である筑前国に侵攻にかかった。島津義弘は5万の大軍を率い、また、島津方に寝返った秋月・龍造寺氏らの軍勢を合わせた約10万の大軍が筑前国に攻め入ったのである。
勝尾城の筑紫広門は岩屋城の前砦として島津勢を食い止める立場にあったが、子の晴門が鷹取城で戦死したために戦意を失ってしまい、島津氏の軍門に降った。豊後国を本拠とする大友氏の威勢は既に衰え、自力では島津氏の侵攻を防ぐこともできず、羽柴秀吉の援助を仰いでいた。これを受けて羽柴勢が九州へ兵を送ることは明白だったので、島津勢は岩屋城の攻略を急いだ。
天正14年(1586)7月、島津勢は島津忠長・伊集院忠棟率いる6万の軍勢で岩屋城を囲んだ。岩屋城を守るのは武勇の誉れ高い高橋紹運である。
合戦を前にして、紹運に立花山城の立花宗茂から「岩屋城よりも要害の立花山城に移るように」との勧めもあったが、紹運はこれを断ったのである。秀吉の援軍が到着するまで岩屋城で島津勢の足止めをしておけば、立花山城の宗茂は助かるだろうと見込んでいたのである。宗茂は立花家に養子に出しこそすれど、紹運の嫡男であった。
紹運は籠城に先立ち、二男の統増(立花直次)とその手勢は宝満城に戻るように告げ、当人以外に跡取りのいない将兵、老幼婦女子や病人なども城から退去するよう命じた。結果、岩屋城の総兵力は763人を残すのみとなった。
島津勢の攻撃は7月14日に開始されたが、寡兵でありながらも高橋勢の奮戦は凄まじく、26日になっても島津勢は城の外郭を破ったにすぎなかった。寄せ手の犠牲者があまりにも多いことから、島津忠長は降伏勧告というよりは講和に近い妥協案を持ちかけたが、紹運は「主人の盛んなときには役立つ武士はいかほどにも候。衰えたるときに腹を切ってこそ誠の武士にて候」と、断固として開城には応じない姿勢を見せつけたのである。
しかし相手は6万もの大軍であり、しかも後詰の援軍もなかったために、先は見えていた。
7月27日、紹運は天守の扉に辞世をしたためると櫓に登り、敵味方の見守る中で自刃した。それまで生き残っていた数十人の将兵も、城兵に続いて自決したという。寡兵でありながらも7月14日からの攻撃によく耐えていた。
この合戦における島津勢の損害は、討死3千余、手負いが1千5百余という。高橋勢は763人の全員が玉砕という、戦国史上まれに見る激戦はこうして幕を下ろしたのである。