肥前国の龍造寺氏と有馬氏は数代に亘る根深い対立を繰り返していたが、天文17年(1548)に龍造寺隆信が龍造寺氏宗家の当主となると急激に勢力を伸ばし、天正6年(1578)3月には有馬氏を服属させるに至る。一代にして『五州二島の太守』と称されるほどの権勢を築いた隆信であるが、その過程においては悪辣な謀略も駆使しており、服属させた将が離反することも度々であった。
一方、九州の南部では薩摩国の島津氏が急成長を遂げており、天正6年の耳川の合戦で大友氏を破った勢いを駆って北進を始めていた。肥後国において勢力圏がかちあうようになったこの両勢力は、天正9年(1581)には龍造寺政家が玉名郡南関に、島津義弘が益城郡御船にそれぞれ本陣を置き、相譲らぬ構えを示した。
この島津氏の侵出に、かねてより龍造寺氏からの脱却を図っていた有馬氏当主・有馬晴信らが島津氏を恃んだことで両氏の対立は避け得ぬものとなっていたが、天正11年(1583)10月中旬、龍造寺・島津両氏の和平を望む秋月種実の奔走によって和議が成立した。しかしこの和睦は一時的な方便に過ぎず、緊張が解けることはなかったのである。
この龍造寺・島津氏の和議成立に先立つ天正10年(1582)の秋、有馬晴信は龍造寺方の深江城攻略を開始。城兵はよく防戦して籠城を続けていたが、翌年4月末には龍造寺氏に属していた島原半島の安徳城主・安徳純俊が叛いて島津方になった。島津氏と有馬氏が連合することになり、島津方有利との見方を強めたからである。
この動きに合わせて島津氏当主・島津義久は島原半島の島津方武将支援のため、弟の島津家久を派遣。翌天正12年(1584)3月13日、島津家久率いる3千の軍勢は海路より安徳城に入り、森岳城に拠る有馬勢5千の兵と連合体制を築いた。
この動きを知った龍造寺隆信も3月18日、自ら2万5千の大軍を率いて龍王崎から出て、20日には島原半島北端の神代湊に着いた。相手は島津氏の母体ではなく、いわば「島津の手先」であったが、島津氏の出鼻を挫くためでもあり、龍造寺氏の威信と意地をかけた全力動員であった。
戦いは3月24日、龍造寺勢の森岳城攻撃によって始められた。
隆信は軍勢を3隊に分け、自らは本隊を率いて中央より進み、鍋島直茂率いる1隊を山手より向かわせ、残る1隊を隆信の子である江上家種・後藤家信らに与えて浜手より進軍させるという戦術を採った。はじめ隆信は山手からの軍勢を率いる予定であったが、島津・有馬連合軍の兵力が少ないことを見て侮り、当日の朝になって突然に陣立てを変更したという。
一方の島津・有馬連合軍の兵力は8千ほどであった。兵数においては比較にならないと考えた家久は、自軍に有利な地形に龍造寺勢を誘い込むことにしたのである。
島原半島の前山(眉山)の山麓から海岸までは、当時は低湿地で深田になっていた。その中央を2、3人がやっと通れるほどの細長い畦道があり、この辺りを沖田畷と呼んでいた。家久はここに龍造寺勢を誘い込むことを考え、いかにも負けたように退いたのである。
それを経略とも思わずに殺到してくる龍造寺勢は1本の畦道を縦に長く進む形となり、そこを狙って側面から島津隊の鉄砲が火を噴いた。
龍造寺勢はそれでも後ろから次々と進んでくるために死骸の山ができた。道を外れればぬかるみに足を取られるし、後続部隊がいるために引き返すこともできない。龍造寺勢は前に進むしかなかった。
そんな状況とも知らない隆信は隊列が進まないことに激怒し、進軍を重ねて命じた。これを聞いた先陣の将士はいきり立ち、さらに凄惨な行軍を敢行した。しかし、自軍の死骸の山を踏み越えて進む龍造寺勢の後続部隊も島津隊の弓や鉄砲による掃射攻撃に阻まれるばかりであった。
頃合と見た家久は先陣部隊に突撃を命じ、さらには新納忠元・伊集院忠棟らの率いる伏兵をも蜂起させたため、龍造寺勢は大混乱に陥った。午前8時頃より始められた戦闘はここに大勢が決し、龍造寺勢の総崩れになってしまったのである。
そして午後2時頃、島津勢の川上忠智隊が隆信本陣に奇襲攻撃をかけ、総大将の隆信までもが首を取られてしまったのである。
この合戦において、百武賢兼・成松信勝・江里口信常・円城寺信胤・小川信俊・執行種兼といった重臣をはじめとして、龍造寺勢では2千人を超える将兵が討死したという。
隆信の死後は子の政家が名実共に跡を継いだが、病弱のために国事を家老の鍋島直茂が代行することとなり、やがてはそれに取って代わられることになる。