龍造寺氏第20代。龍造寺隆信の嫡男。母は龍造寺家門の女。幼名は長法師丸。通称は太郎四郎。初名を鎮賢(しげとも)。民部大輔・肥前守。妻は有馬義貞の娘(有馬晴信の妹)。
天正8年(1580)2月、隆信に叛いた筑後国柳川城主・蒲池鎮並(鎮竝)討伐の大将として出陣。この頃に父・隆信より家督を譲られているが、実権は依然として隆信の手中にあった。
天正9年(1581)4月、重臣の鍋島直茂や肥後国の相良義陽・甲斐宗運ら総勢5万ともいわれる大軍を率いて肥後国に侵攻、反龍造寺勢力を降して肥後国を平定した。
同年7月頃に久家と改名し、9月から12月の間には政家と改めている。
天正10年(1582)、筑後国山門郡の田尻鑑種が龍造寺氏より離反するとこれを攻めた。
天正11年(1583)、島津氏が本格的に肥後国侵攻を開始すると大軍を率いて出陣し、肥後国玉名郡南関で島津義弘と対峙した。この後、秋月種実の斡旋で10月頃に和睦が成立し、互いの領域についての協定を結んで撤兵。
天正12年(1584)3月、隆信が有馬氏を攻めるために島原半島に出陣した際には佐嘉城に在って留守を守っていたが、隆信が沖田畷の合戦で戦死すると名実共に龍造寺氏惣領を継ぐ。しかし勢力の衰退に歯止めをかけることはできず、人質を出して島津氏に降った。
天正15年(1587)の九州征伐に際し、羽柴秀吉に属して先鋒となり、肥前国7郡を安堵される。しかし政家は病身のため大坂に出仕することが困難であり、嗣子・長法師丸(のちの龍造寺高房)も幼少で政家の代理を務めることができなかったために改易されることを憂い、天正16年(1588)11月に隆信の義弟にあたる鍋島直茂を養子とし、のちに直茂が長法師丸に家督を譲ることとして家の存続を図った。
天正18年(1590)3月、佐嘉郡内に5千余石の隠居領を得ると共に軍役免除を認められ、隠退。
慶長12年(1607)9月6日に高房が没すると、その後を追うかのように10月2日に没した。52歳。法名は大雲宗長龍洞院。