水ヶ江龍造寺氏の始祖・龍造寺家兼の二男。龍造寺家純の弟。通称は三郎兵衛。左衛門佐・和泉守。
父・家兼と同様に少弐氏に属し、享禄3年(1530)8月の田手畷の合戦、天文3年(1534)2月の三津山(籾岳)夜襲などに従軍して大内氏と戦い、武名を挙げた。
天文7年(1538)2月、家兼の出家に伴って家督を譲られ、水ヶ江龍造寺氏2代目の当主となる。
天文9年(1540)には千葉氏の内訌の調停に関与し、少弐・千葉・龍造寺の連携体制を作り、有馬氏の侵攻に備えた。
天文14年(1545)の冬に少弐冬尚の重臣・馬場頼周が家兼の失脚を策したとき、頼周に呼応して出兵した有馬晴純を迎撃するため肥前国杵島郡長島に出陣したが、翌天文8年(1546)1月15日の藤津郡冬野原の合戦で敗れ、水ヶ江城に撤退した。
その後、頼周は水ヶ江城を包囲しつつ和議を迫ったため水ヶ江城は開城。その和議条件を受けて家門らは兄・家純らとともに1月23日に筑前国に退去することになったが、これも頼周の謀略であり、途次の川上与止日女神社境内で頼周や神代勝利の軍勢の夜襲を受けて自刃した。